むかし話 橋のかけくらべ コラム <郷土の伝説> ~橋のかけくらべ~ むかし、帝釈の鬼神(おんがみ)山には二ひきの鬼の親分がそれぞれたくさんの手下(てした)をひきつれて棲んでいました。あるときのことです。親分どうしが酒を飲みながら自慢ばなしをしていました。 一ぴきがいいました。 「わしんとこのほうが、おまえんとこよりちいとばあ勢力がええようじゃのう。」 すると相手も負けていません。 「なにぬかすんなら、そりゃわしがいいたいところよ。けんかあしても負きゃあせんぞ。」 「なんと、けんかあすりゃあ、どっちかが負けてお互いに損じゃけえ、けんかあせんこうに、なんかええ力くらべゃあできんかのう」 二ひきはいろいろ考えていましたが、 「そうじゃ、あのけわしい崖(がけ)のある川に橋のかけくらべょをせんかや。」 「なるほど、そりゃあええ。せえじゃが、いつしょうか。」 「そりゃあ今晩でもええ、日が暮れてからのう、朝、日が出るまでのあいだに、あの川に石の橋(はしゆ)うかけるんじゃ。日が出たらやめにゃあいけんぞ。へえから、どっちがようできとるか見て歩くんじゃ。」と、相談がまとまりました。 日が暮れました。鬼の両親分はそれぞれおおぜいの子分を𠮟りつけながらさしずして、大きな石を運ばせて、せっせと橋をつくりはじめました。 やがて朝が来ました。やっぱり二ひきの親分にも勢力の違いがありました。ひとつの橋はみごとにできあがっていましたが、もうひとつの橋は半分しかできていませんでした。 それからというものは、負けたほうの親分は勝ったほうの親分の弟分になったというこです。そのとき、りっぱにできあがったほうの橋がいまの雄橋(おんばし)、半分しかできなかったほうの橋がいまの雌橋(めんばし)だということです。 ご紹介した物語は、広島県東城町文化財協会より発刊された「東城の文化」No.4に掲載されたものです。この冊子には東城町の文化、暮らし、むかし話がたくさん紹介されています。自分たちの故郷にはたくさんの歴史と文化があり心のよりどころになっています。この「東城の文化」の初刊は昭和36年10月1日に発刊されています。そして同じ年の9月10日に帝釈峡馬渡遺跡が林道工事の際に発見されました。翌年に発掘が開始され来年で発掘60周年という節目の年を迎えます。