帝釈峡遺跡群展示品【時悠館】

記念切手「帝釈峡遺跡群発見60周年記念」の解説

雄橋と三大岩陰遺跡

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切手の台紙解説
 帝釈峡遺跡群発見60周年を記念して記念切手シートが発行され、その台紙に使われた写真の説明を掲載します。
 時悠館では帝釈峡の遺跡や出土品について展示しています。
 帝釈峡を散策した後は時悠館に来館ください。[写真、説明文は時悠館提供]

 ◆帝釈峡遺跡群とは
 帝釈峡(たいしゃくきょう)の周辺一帯の石灰岩地には、長年の浸食(しんしょく)によって多くの洞窟(どうくつ)・岩陰(いわかげ)ができ、先史時代の人類遺跡が随所に残され「帝釈峡遺跡群」と呼ばれています。 
 我が国の代表的な洞窟・岩陰遺跡群であり、広島県庄原(しょうばら)市・神石(じんせき)高原(こうげん)町・府中(ふちゅう)市、岡山県新見(にいみ)市にまたがる広大な地域に、50か所以上の遺跡が分布します。
 60年もの歳月をかけて寄倉(よせくら)岩陰(国史跡)、馬渡(まわたり)・名越(なごえ)・豊松堂面(とよまつどうめん)岩陰(広島県史跡)、観音堂(かんのんどう)洞窟など13遺跡が調査され、考古学の進展に寄与してきました。
 令和3年9月10日(金)、馬渡遺跡の発見から数えて60年の節目をむかえました。


(1)天然記念物「雄橋」 昭和62(1987)年指定

 峡谷にかかる天然記念物「雄(おん)橋(ばし)」は、それ自体が岩陰遺跡の可能性があり、上部は先史人たちの道路であったと予想され、先史時代の景観を現代に伝えています。

 

 

 

 

(2)史跡「寄倉岩陰遺跡」 昭和38(1963)~41(1966)年調査、昭和44(1969)年指定

 史跡「寄倉(よせくら)岩陰(いわかげ)遺跡(いせき)」は、帝釈峡遺跡群の象徴というべき巨大な岩陰遺跡です。
数千年にわたる人々の暮らしの跡が下から上へと順序よく重なっているため、中四国地方の縄文土器の移り変わりを一遺跡でたどることができます。
 縄文後~晩期(約3千年前ごろ)には、聖なる墓地でもあったようです

 


(3)広島県史跡「帝釈峡馬渡遺跡」 昭和37(1962)~39(1964)年調査、昭和38(1963)年指定

 広島県史跡「帝釈峡(たいしゃくきょう)馬渡(まわたり)遺跡(いせき)」は、日本列島における土器出現の過程を示す重要遺跡です。
 昭和36(1961)年9月10日、林道の工事に際して帝釈地域の人々に見出され、その後60年に及ぶ帝釈峡遺跡群の調査研究の端緒となりました。

 


(4)広島県史跡「帝釈名越岩陰遺跡」 昭和41(1966)~44(1969)年調査、昭和60(1985)年指定

 広島県史跡「帝釈(たいしゃく)名越(なごえ)岩陰(いわかげ)遺跡(いせき)」は、岩陰住居の生活を具体的に示してくれる遺跡です。
 暮らしに便利な間仕切りや貯蔵(ちょぞう)穴(けつ)などの造作(ぞうさく)がしつらえられ、その中にはお墓もあります。
 稲の籾(もみ)の痕(あと)がついた土器もみつかり、縄文時代の穀物栽培を知る手掛かりとなりました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時悠館展示物の紹介

 ◆切手の写真の解説
 帝釈峡遺跡群発見60周年を記念して記念切手が発行されました(発売開始は令和4年3月25日)。
 切手には土器や石器などの写真が使われていますが、それらの解説文を掲載しますのでご覧ください。
 これらは庄原市帝釈峡博物展示施設時悠館に展示されています。

 帝釈峡の自然に今もある遺跡を見て、そして時悠館に来てこれら遺跡物をご覧ください。
                     [写真、説明文は時悠館提供]


(1)無紋平底土器【帝釈峡馬渡遺跡】

 無文(むもん)平底(ひらぞこ)土器(どき)は草創期(そうそうき)(1万2千年以上前)の土器。初源期の土器のなかまです。
 獣(じゅう)毛(もう)や植物など繊維を練りこんでいます。重くて運ぶことが難しい土器が普及したことは、移動中心の暮らしから定住性のある暮らしへという、人類史の大きな画期を物語っています。

 

 

 

(2)押型文土器【帝釈峡馬渡遺跡】

 押型(おしがた)文(もん)土器は早期(約1万年前)の土器。西日本の広範囲で作られました。  押型文は、細竹などに格子(こうし)目や山形、楕円形などの文様を彫刻し、これを「原体(げんたい)」として土器の表面に押し転がしてつけた文様をいいます。同様に、縄を原体として転がした文様が「縄文(じょうもん)」、細縄をよった撚糸(よりいと)を原体として転がした文様が「撚糸文」です。

 

 


(3)尖頭器【帝釈峡馬渡遺跡】

 尖頭器(せんとうき)は、旧石器時代の流れをくむ小型の石槍(やり)で、一緒に弓矢の矢じりも出土しました。今より寒冷だった縄文草創期のある日、狩人がこの岩陰でキャンプし、残していった物です。石槍の小型化や弓矢の使用は、ヤベオオツノジカなど更新(こうしん)世(せい)の大型獣から、イノシシ・ニホンジカ・ノウサギなど中・小型獣へと、主な狩猟対象獣が変化していった様子を示します。

 


(4)カワシンジュガイ【帝釈峡馬渡遺跡】

 カワシンジュガイは、土器で煮炊きした食物の残滓(ざんし)とみられます。殻の破片を放射性炭素年代測定した結果、「12,080±100y.BP」、つまり今から約1万2千年前という年代値が得られています。
貝や骨など、普通の遺跡では残らないものが、当時のままの姿で残されている点こそ、アルカリ性の石灰岩の中に残された帝釈峡遺跡群の最大の特徴です。

 

(5)里木式土器【寄倉岩陰遺跡】

 寄倉岩陰遺跡の調査を通じて、中四国地方の縄文土器の移り変わりが確かめられました。

 里(さと)木式(ぎしき)土器は、中期(約5千年前)の里木Ⅱ式土器とよばれるもので(里木Ⅰ式は前期)、倉敷(くらしき)市の里木貝塚を標識(ひょうしき)遺跡とします。撚糸文と沈線文によって土器の表面を華やかに飾ります。

 

 

(6)中津式土器【寄倉岩陰遺跡】

 中津(なかつ)式土器は後期(約4千年前)の土器。こちらも倉敷市の中津貝塚を標識遺跡とします。

  土器の表面に縄文と沈線文によって文様をえがき、その縄文の一部を磨り消して仕上げる「磨消(すりけし)縄文(じょうもん)」の技法を特徴とする土器のなかまです。

 この土器の頃、寄倉岩陰は帝釈地域の縄文人たちの聖なる墓域として営まれていたようです。

 

(7)籾圧痕土器【帝釈名越岩陰遺跡】

 籾圧(もみあっ)痕(こん)土器は、晩期(ばんき)(約3千年前)の土器の裏底に、稲の籾の痕(あと)が残されていたもので、本州でみつかった初例とされます。土器をつくる作業場に籾殻が散らばっていたことを意味しており、中国山地でも縄文晩期までには、お米という穀物(こくもつ)が知られていたことを示す重要発見でした。縄文時代の穀物栽培を経て、弥生時代の水田稲作が成立していく過程を見いだせます。

 

(8)弥生土器【帝釈名越岩陰遺跡】

 弥生(やよい)土器は、弥生中期(約2千年前)の塩町(しおまち)式土器と呼ばれる中国山地の弥生土器です。弥生時代の人々によって、この岩陰で何らかの祭祀(さいし)が行われていたものとみられます。
 帝釈峡の岩陰の利用は、旧石器・縄文時代にとどまらず弥生時代を経て、古墳時代さらには古代・中世へと、遥かなる時代をこえて継承された地域文化といえます。

 

(9)縁帯文土器【白雲洞洞窟】

 縁帯(えんたい)文(もん)土器は、白雲(はくうん)洞(どう)洞窟(どうくつ)で採集された後期(約4千年前)の土器。口(こう)縁部(えんぶ)を文様帯(もんようたい)で飾ります。

 帝釈峡の観光地として名高い白雲洞をはじめ、「鬼の唐門(からもん)」、「鬼の岩屋(いわや)」などからも縄文時代の遺物がみつかっています。
 自然の営力を崇敬したとされる縄文人たちが、人智を超えた帝釈峡の景観の中に身を置き、何を想い、何を願って過ごしていたのか、興味は尽きません。

 

(10)帝釈峡博物展示施設時悠館

 帝釈峡博物展示施設時(じ)悠館(ゆうかん)は、帝釈峡・帝釈峡遺跡群のビジターセンターです。
 帝釈峡遺跡群は、55遺跡が知られ、半世紀を超えて調査研究が続けられてきました。