帝釈峡遺跡群発掘60周年

昭和36年9月10日、帝釈の住民によって林道工事中の崖の岩陰から発見されました。
この遺跡が帝釈峡馬渡遺跡です。

そして翌年から発掘調査され55もの遺跡が発見されました。
発掘調査により土器や石器、道具類等などが見つかり旧石器時代から縄文時代、弥生時代の1万年を超えた連綿と続く人々の暮らしが分かってきました。これらの成果は日本の考古学の発展に大きく寄与しました。

令和4年が帝釈峡遺跡群発掘60周年という記念すべき年であり、それを記念してモニュメント設置や事業を催しこの帝釈峡を世間の皆様に再認識していただくと共に、皆様に帝釈峡へ足を運んでいただき帝釈峡の自然や遺跡群に触れ、私たちの原点である古代ロマンに想いを馳せていただきたいと思います。

知れば楽しい 帝釈峡遺跡群の話

むかし話 橋のかけくらべ

コラム

<郷土の伝説> ~橋のかけくらべ~
むかし、帝釈の鬼神(おんがみ)山には二ひきの鬼の親分がそれぞれたくさんの手下(てした)をひきつれて棲んでいました。あるときのことです。親分どうしが酒を飲みながら自慢ばなしをしていました。
一ぴきがいいました。
「わしんとこのほうが、おまえんとこよりちいとばあ勢力がええようじゃのう。」
すると相手も負けていません。
「なにぬかすんなら、そりゃわしがいいたいところよ。けんかあしても負きゃあせんぞ。」
「なんと、けんかあすりゃあ、どっちかが負けてお互いに損じゃけえ、けんかあせんこうに、なんかええ力くらべゃあできんかのう」
二ひきはいろいろ考えていましたが、
「そうじゃ、あのけわしい崖(がけ)のある川に橋のかけくらべょをせんかや。」
「なるほど、そりゃあええ。せえじゃが、いつしょうか。」
「そりゃあ今晩でもええ、日が暮れてからのう、朝、日が出るまでのあいだに、あの川に石の橋(はしゆ)うかけるんじゃ。日が出たらやめにゃあいけんぞ。へえから、どっちがようできとるか見て歩くんじゃ。」と、相談がまとまりました。
日が暮れました。鬼の両親分はそれぞれおおぜいの子分を𠮟りつけながらさしずして、大きな石を運ばせて、せっせと橋をつくりはじめました。
やがて朝が来ました。やっぱり二ひきの親分にも勢力の違いがありました。ひとつの橋はみごとにできあがっていましたが、もうひとつの橋は半分しかできていませんでした。
それからというものは、負けたほうの親分は勝ったほうの親分の弟分になったというこです。そのとき、りっぱにできあがったほうの橋がいまの雄橋(おんばし)、半分しかできなかったほうの橋がいまの雌橋(めんばし)だということです。

ご紹介した物語は、広島県東城町文化財協会より発刊された「東城の文化」No.4に掲載されたものです。
この冊子には東城町の文化、暮らし、むかし話がたくさん紹介されています。自分たちの故郷にはたくさんの歴史と文化があり心のよりどころになっています。
この「東城の文化」の初刊は昭和36年10月1日に発刊されています。そして同じ年の9月10日に帝釈峡馬渡遺跡が林道工事の際に発見されました。翌年に発掘が開始され来年で発掘60周年と
いう節目の年を迎えます。

帝釈峡遺跡発見1 帝釈峡馬渡遺跡

昭和36年9月10日、永明寺住職村上誠龍氏が、馬渡川傍の林道工事中の崖から多量の貝殻と土器片を2個見つけました。
それを見た帝釈中学校長小田格一郎先生は縄文時代の貴重な遺跡であると判断しました。これが帝釈峡遺跡群発見の糸口となった記念すべき発見となりました。この遺跡は県下で最初の縄文早期の岩陰遺跡であることが明らかになり、「馬渡遺跡」と呼ぶことになりました。

 

 

帝釈峡馬渡遺跡の調査風景(広島大学)

 

 

馬渡遺跡は岩陰にそって長さ約10m、厚さ約5mにわたり、旧石器時代末期から縄文時代前期におよぶ5つの文化層になっています。第5層からは横剥ぎの刃器とオオツノジカが出土し、第4層からは石槍・石鏃な らびにわが国最古の土器、カワシンジュガイなどの貝が出土し、旧石器時代から縄文時代への推移をよく示 しています。

旧石器時代と縄文時代の大きな違いは、「土器」の存在であり、土器の登場が縄文時代のはじまりです。5つの文化層が示すように旧石器時代・縄文時代から1万年以上も同じ場所に、自然と共存して住み続けられる帝釈峡。この帝釈峡を大切にして多くの人に知ってもらいたいと思います。


地層と年表

帝釈峡遺跡発見2 寄倉岩陰遺跡

寄倉岩陰遺跡は帝釈峡入り口近くの帝釈川左岸にあり、帝釈遺跡群のなかでは最大規模の岩陰遺跡であり、我が国屈指の大遺跡です。
昭和38年から寄倉岩陰遺跡が発掘開始され、4次にわたる調査が行われました。
① 縄文時代の年表ができた
地表から深さ約7mにわたり13の文化層が見つかりました。
この文化層はほぼ縄文時代の全般にわたっており、縄文早期にあたる12層から繊維を含んだ土器が出土しました。それぞれの層から出土した土器や石器、動物の骨などから、1万年も続いた縄文時代の年表が分かるようになりました。
② 縄文時代に共同墓地
昭和40年の調査では岸壁南寄りの二地点から人骨がまとまった状態で22体、24体と見つかり他の場所と合わせると50体以上が見つかりました。
これらの人骨は別の場所に埋葬されていたもので、この寄倉の約2m四方の範囲に集積された状態で見つかり、改葬・二次葬であると思われます。
推測ですが、縄文時代の後期末の縄文人は先祖を敬う風習があったと考えられ、この場所は先祖といっしょに暮らすことにより精神的な力を得ることができる聖なる場所だったのではないでしょうか。
寄倉遺跡は、大きな岩陰でどこからも見ることができる場所であるため、当時はみんなが集まる交流の場所であったとも考えられます。
 縄文人は、棍棒を持った未開人のようなイメージを持っていましたが、遺跡のことを知り現在に通じる高い文化を持った人達だったと考えが変わりました。

寄倉岩陰遺跡

 

 

小田格一郎先生の手記に寄倉遺跡発掘当時の様子が書かれています。(帝釈文化)

「30㎝位掘ったら大型の土器が出てきて調査員の顔が緊張した。
雨が激しくなる中で、さらに2mくらい掘ると素晴らしい出土遺物が出て万歳が叫ばれた。調査は活気に満ちたのである。」

と記述されています。当時の発見の熱を帯びた様子が伝わってくるようです。

帝釈峡遺跡発見3 帝釈名越岩陰遺跡

帝釈峡岩陰遺跡群の中で三大遺跡と呼ばれるのが前回までに紹介しました「帝釈峡馬渡遺跡」、「寄倉岩陰遺跡」と今回最後の紹介となります「帝釈名越岩陰遺跡」です。
 この遺跡で三つのあと(痕・跡)が明らかになり、当時では大発見となりました。
① 土器に籾の圧痕
発見された縄文時代晩期の土器の底に、籾でつけた紋がありました。弥生時代より前に、帝釈峡でも米の栽培が始まっていたことになります。


② 構造物の跡
柱を立てた跡が見つかりました。軒や小屋がけ、部屋の仕切りなどを設け、岩陰を高度に利用した便利で快適な暮らしをしていたようです。
③ 先祖と同居の跡


岩陰のそばで若い3体の骨が埋葬された跡が発見されました。これは魂の存在を信じていたようです。生活の場に埋葬することで家族か仲間の魂と一緒に暮らすことで精神的な力を得ていたとみられます。どんなものにも魂が宿るというアミニズム的な精神文化があったようです。

今は木々に埋もれた不便な山の中に遺跡があります。しかし何百年、何千年の昔は、今と違った姿であったのでしょう。岩陰に住み、御神山周辺で動物を獲り未渡川で採れた魚や貝類を煮炊きして食べていました。
仲間とともに狩猟・漁猟する住みやすい生活であったことでしょう。

帝釈峡名越岩陰遺跡





土器で煮炊き(時悠館内)

 

小田格一郎先生によると、現在人の住居の条件は、「学校や役所が近く、商店があり、交通が便利でガス水道が整備された経済的に恵まれた所」となります。
しかし、縄文時代の住居の条件は「①風雪をしのげる、②植物が十分に確保できる、③飲料水の便が良い、④日当たりがよく乾燥して気持ちがよい」となりこの条件をすべて満足したのが名越岩陰であると話されています。

※参考文献 帝釈文化 協力 時悠館