帝釈峡遺跡群
<郷土の伝説> ~橋のかけくらべ~
帝釈峡遺跡発見1 帝釈峡馬渡遺跡
昭和36年9月10日、永明寺住職村上誠龍氏が、馬渡川傍の林道工事中の崖から多量の貝殻と土器片を2個見つけました。
それを見た帝釈中学校長小田格一郎先生は縄文時代の貴重な遺跡であると判断しました。これが帝釈峡遺跡群発見の糸口となった記念すべき発見となりました。この遺跡は県下で最初の縄文早期の岩陰遺跡であることが明らかになり、「馬渡遺跡」と呼ぶことになりました。
帝釈峡馬渡遺跡の調査風景(広島大学)
馬渡遺跡は岩陰にそって長さ約10m、厚さ約5mにわたり、旧石器時代末期から縄文時代前期におよぶ5つの文化層になっています。第5層からは横剥ぎの刃器とオオツノジカが出土し、第4層からは石槍・石鏃な らびにわが国最古の土器、カワシンジュガイなどの貝が出土し、旧石器時代から縄文時代への推移をよく示 しています。
旧石器時代と縄文時代の大きな違いは、「土器」の存在であり、土器の登場が縄文時代のはじまりです。5つの文化層が示すように旧石器時代・縄文時代から1万年以上も同じ場所に、自然と共存して住み続けられる帝釈峡。この帝釈峡を大切にして多くの人に知ってもらいたいと思います。
地層と年表
帝釈峡遺跡発見2 寄倉岩陰遺跡
寄倉岩陰遺跡は帝釈峡入り口近くの帝釈川左岸にあり、帝釈遺跡群のなかでは最大規模の岩陰遺跡であり、我が国屈指の大遺跡です。
昭和38年から寄倉岩陰遺跡が発掘開始され、4次にわたる調査が行われました。
① 縄文時代の年表ができた
地表から深さ約7mにわたり13の文化層が見つかりました。
この文化層はほぼ縄文時代の全般にわたっており、縄文早期にあたる12層から繊維を含んだ土器が出土しました。それぞれの層から出土した土器や石器、動物の骨などから、1万年も続いた縄文時代の年表が分かるようになりました。
② 縄文時代に共同墓地
昭和40年の調査では岸壁南寄りの二地点から人骨がまとまった状態で22体、24体と見つかり他の場所と合わせると50体以上が見つかりました。
これらの人骨は別の場所に埋葬されていたもので、この寄倉の約2m四方の範囲に集積された状態で見つかり、改葬・二次葬であると思われます。
推測ですが、縄文時代の後期末の縄文人は先祖を敬う風習があったと考えられ、この場所は先祖といっしょに暮らすことにより精神的な力を得ることができる聖なる場所だったのではないでしょうか。
寄倉遺跡は、大きな岩陰でどこからも見ることができる場所であるため、当時はみんなが集まる交流の場所であったとも考えられます。
縄文人は、棍棒を持った未開人のようなイメージを持っていましたが、遺跡のことを知り現在に通じる高い文化を持った人達だったと考えが変わりました。
寄倉岩陰遺跡
小田格一郎先生の手記に寄倉遺跡発掘当時の様子が書かれています。(帝釈文化)
「30㎝位掘ったら大型の土器が出てきて調査員の顔が緊張した。
雨が激しくなる中で、さらに2mくらい掘ると素晴らしい出土遺物が出て万歳が叫ばれた。調査は活気に満ちたのである。」
と記述されています。当時の発見の熱を帯びた様子が伝わってくるようです。
帝釈峡遺跡発見3 帝釈名越岩陰遺跡
帝釈峡岩陰遺跡群の中で三大遺跡と呼ばれるのが前回までに紹介しました「帝釈峡馬渡遺跡」、「寄倉岩陰遺跡」と今回最後の紹介となります「帝釈名越岩陰遺跡」です。
この遺跡で三つのあと(痕・跡)が明らかになり、当時では大発見となりました。
① 土器に籾の圧痕
発見された縄文時代晩期の土器の底に、籾でつけた紋がありました。弥生時代より前に、帝釈峡でも米の栽培が始まっていたことになります。
② 構造物の跡
柱を立てた跡が見つかりました。軒や小屋がけ、部屋の仕切りなどを設け、岩陰を高度に利用した便利で快適な暮らしをしていたようです。
③ 先祖と同居の跡
岩陰のそばで若い3体の骨が埋葬された跡が発見されました。これは魂の存在を信じていたようです。生活の場に埋葬することで家族か仲間の魂と一緒に暮らすことで精神的な力を得ていたとみられます。どんなものにも魂が宿るというアミニズム的な精神文化があったようです。
今は木々に埋もれた不便な山の中に遺跡があります。しかし何百年、何千年の昔は、今と違った姿であったのでしょう。岩陰に住み、御神山周辺で動物を獲り未渡川で採れた魚や貝類を煮炊きして食べていました。
仲間とともに狩猟・漁猟する住みやすい生活であったことでしょう。
帝釈峡名越岩陰遺跡
土器で煮炊き(時悠館内)
小田格一郎先生によると、現在人の住居の条件は、「学校や役所が近く、商店があり、交通が便利でガス水道が整備された経済的に恵まれた所」となります。
しかし、縄文時代の住居の条件は「①風雪をしのげる、②植物が十分に確保できる、③飲料水の便が良い、④日当たりがよく乾燥して気持ちがよい」となりこの条件をすべて満足したのが名越岩陰であると話されています。
※参考文献 帝釈文化 協力 時悠館