帝釈峡遺跡発見3 帝釈名越岩陰遺跡

帝釈峡岩陰遺跡群の中で三大遺跡と呼ばれるのが前回までに紹介しました「帝釈峡馬渡遺跡」、「寄倉岩陰遺跡」と今回最後の紹介となります「帝釈名越岩陰遺跡」です。
 この遺跡で三つのあと(痕・跡)が明らかになり、当時では大発見となりました。
① 土器に籾の圧痕
発見された縄文時代晩期の土器の底に、籾でつけた紋がありました。弥生時代より前に、帝釈峡でも米の栽培が始まっていたことになります。


② 構造物の跡
柱を立てた跡が見つかりました。軒や小屋がけ、部屋の仕切りなどを設け、岩陰を高度に利用した便利で快適な暮らしをしていたようです。
③ 先祖と同居の跡


岩陰のそばで若い3体の骨が埋葬された跡が発見されました。これは魂の存在を信じていたようです。生活の場に埋葬することで家族か仲間の魂と一緒に暮らすことで精神的な力を得ていたとみられます。どんなものにも魂が宿るというアミニズム的な精神文化があったようです。

今は木々に埋もれた不便な山の中に遺跡があります。しかし何百年、何千年の昔は、今と違った姿であったのでしょう。岩陰に住み、御神山周辺で動物を獲り未渡川で採れた魚や貝類を煮炊きして食べていました。
仲間とともに狩猟・漁猟する住みやすい生活であったことでしょう。

帝釈峡名越岩陰遺跡





土器で煮炊き(時悠館内)

 

小田格一郎先生によると、現在人の住居の条件は、「学校や役所が近く、商店があり、交通が便利でガス水道が整備された経済的に恵まれた所」となります。
しかし、縄文時代の住居の条件は「①風雪をしのげる、②植物が十分に確保できる、③飲料水の便が良い、④日当たりがよく乾燥して気持ちがよい」となりこの条件をすべて満足したのが名越岩陰であると話されています。

※参考文献 帝釈文化 協力 時悠館

 

2022年03月15日